こんにちは。世界樹の人です。
私がいつも疑問に思っている、日常のど真ん中にありながら、よくよく考えると、
「これは本当に地球が自然に生んだものなのか?」と思わされる二つの植物─バナナととうもろこしについてです。
どちらも私たちの生活に深く入り込み、説明も必要ないほど身近な食べ物ですが、あまりにも便利すぎて、あまりにも完成されすぎていて、むさぼりながらいつも思います。
これは絶対地球上の食べ物ではない、と。
バナナ
まずバナナ。手に取った瞬間から「どうぞお召し上がりください」と言わんばかりの佇まいをしています。
皮には自然な裂け目があり、そこをつまめばすっとむける。包丁も火もいらない。
簡単に食えてしかも中身はあの甘さ。
朝ごはんで優秀と言われるカレーや卵かけご飯も、バナナに対しては敬意を払っているはずです。
茶葉ほど複雑ではありませんが、それでも“手間のかからなさ”という点では、バナナは人類に対してあまりにも寛大です。あれほど気前の良い植物はそう多くありません。
しかもミラクルフルーツと称されるほどの栄養価があり、白米と違って緩やかに血糖値を上げてくれます。
特にこれは仕事をする人には重要で、燃費の悪い人間は12時に昼飯を食っても17時まで腹がもたないなんてことは当たり前です。残業だってあります。
私はサラリーマン時代よく16時頃にバナナを一本食べてました。血糖値の低下は技術職のサラリーマンにとって大敵です。頭が回らなくなった瞬間すべてが終了してしまうからです。
そして、夏も冬も一房100円程度でどこでも売られている安さ。
この物価高でもバナナだけは上がったようには見えません。
バナナに缶詰がない理由を知っていますか?なぜなら年中本物をたべれるからです。(超持論)
バナナチップにする理由は…
あれは旨いからするんです。
明らかに人間にとって都合が良すぎます。
とうもろこし
そしてとうもろこし。
火を加えると甘味が増し、粒の並びは整然としていて、見ているだけで妙に気持ちがいい。
あの規則正しさは、まるで人間が「均整とは」を学ぶために地球が提供した教材のようです。
とはいえ、お前本当に植物かと疑ってしまうくらい、他に似た植物がありません。
皮をむいてひげを取って、塩ひとつまみで茹でれば、食卓が急に祭りの夜店みたいになる。
たった一つの植物があそこまで雰囲気を変えるのだから不思議なものです。
そして間違いなく旨い。醤油、バター、マヨネーズ何でも合います。(わさびも旨い)
バナナと違い、茹でるという工程が必要ですが、とうもろこしは穀物バイオエネルギーとしても利用され、家畜を育てる餌にもなっています。美味しい霜降りの牛さんたちはとうもろこしで育っています。
つまりは量も手に入るわけです。育てやすいと言うことですね。
なによりとうもろこしが人外世界の存在だと思ってしまう理由は、その原種がメキシコのマヤ文明の辺りで発見されたということです。
マヤ文明は宇宙人が作って消した文明であることは周知の事実ですが、んな凄いの一夜で滅ぶってそれしかないし。
まさにその周辺で見つかったということは、宇宙のテクノロジーが入っているような気がしてなりません。
人の生活を支えていると言う意味では、バナナより一歩先を行っており、まさになくてはならない存在でしょう。
彼らは一体なにものか
もちろん、私が専門的に語れるのは茶のほうであって、植物学者でも歴史学者でもありませんので彼らの素性はよくしりません。よく食べていつも疑問に思うだけで、掘り下げたことは今までありませんでした。
しかし、バナナやとうもろこしがどう見ても“ただの自然物”の顔をしていないことくらいは、茶人の目にもはっきりとわかります。
あまりにも人間向けに設計されすぎている。
そこで色々と気になって調べてみると、どうやら彼らの親切さは、自然というより「長年アップデートされて完成されたユーザーインターフェース」であることを知りました。
たとえば、バナナの種はほとんど見えません。
普通、植物は種を残すために果実を作るのですが、バナナはその種の存在をどこかに置き去りにしてしまった。
とうもろこしも同じで、自然の中で自力で生き抜くには不向きな構造をしています。
粒がびっしり詰まりすぎて、風任せで散らばってくれない。
どちらも“そのまま野に放たれて勝手に繁栄する”というタイプではありません。
これを考えると、彼らは地球の自然がつくったというより、人類との長い共同作業で形づくられてきた存在です。
人間が「甘いほうがいい」「大きいほうがいい」「食べやすいほうがいい」と選び続け、結果として現在の姿になった。
その意味では、バナナもとうもろこしも、文明と自然が混ざり合って生まれた“合作物”と言えます。
茶の品種改良にも似ていますが、こちらはもっと大胆で、もっと生活に密着しています。
ユーモアを込めて言うなら、バナナは「己の繁殖より人類の便利さを優先した稀有な存在」であり、とうもろこしは「自然では成立しない形を堂々と名乗り続ける頑固者」です。
どちらもどこかで自然から外れつつ、しかし自然に馴染んでしまっている。
この矛盾したあり方が面白い。ある意味で、彼らは生態系における“哲学の問題児”のようなものかもしれません。
私たちは普段、彼らをただの食べ物として扱っています。しかしよく考えれば、これは何千年も前の人たちが「もっとこうしたら食べやすいのでは」と試行錯誤した結果の結晶であり、その積み重ねを、現代の私たちは無意識に引き継いでいます。
日常で何気なく皮をむくという行為の裏に、人類と植物の長い歴史が眠っている。そう考えると、ただの軽食が急に神妙な儀式のように感じられます。
かといって、本当にとうもろこしが食べ物としてもエネルギーとしても家畜の餌としても使えることが分かった上で研究されていたのでしょうか。実は、エネルギーとしても使えるんだ!っていうのはあとから気付いたとかであれば、やはりそれは種自体の凄さであるとしか言えません。
では、「自然」とは何でしょうか。
もし“人間が手を加えていないもの”を自然と呼ぶなら、バナナもとうもろこしも自然ではありません。
でも、もし“地球上で起きた変化すべて”を自然と呼ぶのなら、人類の農耕も道具も選択もまた自然の一部です。
どちらが正しいとは簡単には言えません。
しかし境界は案外曖昧で、私たちはその曖昧さの上で生活しているのだと、二つの食べ物は静かに教えてくれます。
元土木技術者であった私からすれば、俗に言う田舎であってもその殆どが人工物として目に映ります。
川も、森も、池も。
しかし、彼らはどう表現すべき分からない。
つまり、バナナやとうもろこしは、「自然か人工か」をわける線をひょいとまたいでくる存在なのです。
彼らは自然でありながら人工的で、人工的でありながら自然。
どちらでもあり、どちらでもない。その曖昧な姿を前にすると、私たちが普段“当たり前”と呼んで積み上げている価値観が、少しだけ揺さぶられます。
こうして身近な食べ物の背景に思いを向けると、生活が少しやわらかくなるかもしれません。
バナナを食べるとき、とうもろこしを茹でるとき、あるいは茶を淹れるとき。それぞれが静かな時間をもたらし、小さな哲学を運んできます。
忙しい日々のなかで、こうした視点がひとつあるだけで、同じ日常が少しだけ豊かに見えるかもしれません。
今日もまた、世界のどこかで誰かがバナナの皮をむき、とうもろこしの粒をそっとほぐし、急須や茶壺に茶葉を入れています。
その姿は、自然と人間が長い年月をかけて紡いできた共同の物語の、ほんの一瞬の風景です。
