こんにちは。世界樹の人です。
もともとstoresを使わせてもらっていたのですが、BASEに移行しました。
引き続きstoresも残しますが、これからはBASEをメインにします。
茶葉は約70種、掲載しています。
今後増やしていきたいと思っていますので、よろしくお願いします^^
先日の台風を皮切りに、朝と夜が急に涼しくなりましたね。
日中はまだまだ暑いですが、鳴いている虫が変わりました。
蝉はいなくなり、鈴虫の心地よい声が聞こえます。秋が近付いています。
9月になって、急激に消費意欲が冷え込んでいるように感じます。
夏休み後の反動の影響でしょうか。そういえば去年も9月は売り上げがイマイチだった気がしますね。
物価高や景気の影響はあるものの、博報堂生活総研等々の調査によると外食産業はコロナ前と同等レベルまで回復してきているとのこと。
これって本当なのかな。まったく肌で感じないなあ。。
インバウンド(訪日外国人)による消費が急増していて、外食・体験型産業の5%以上を占める規模に成長しているようです。日本全体の5%って、冷静に考えるととんでもない数字ですね。
都会ではきっと5%なんで数字ではないはず。
僕の大好きな街、難波ではいまや日本人はほとんど見かけなくなりました。
コンビニやマクドでは店員もお客さんも全員外国人。本当に日本人を見つける方が難しい街になりましたね。
日本と中国を行ったり来たりしていますが、自国民が自国に対する熱というか、想いのようなものが、日本ではもう感じられません。日本人は憂うだけです。
中国では中国愛に溢れた若者がたくさんいますね、これが洗脳だったとしても、国策としては間違いではないのでしょう。
今、難波の街を憂う国民は何人もいるのに、きっと来年も同じような街並みのままです。
僕も含めて、多くの日本人は銀河鉄道に乗っているような感覚になります。
それとも、僕が乗っているからそう思ってしまうのでしょうか。
心の中で、今にも泣き出しそうなカンパネルラが一生懸命声をかけてきます。
「本当のさいわいとは一体なんだろう」
恐らく、何不自由なく暮らす余裕があり、愛のある家族がいればそれは幸せと言えるのでしょう。
でも、それを「ほんとうのさいわい」と断言できるほど、今の僕は達観しているのでしょうか。
誰にも達成したい目標がありますが、誰も彼もが脇目も振らずそれに向かって走り続けることができるほど、強くはありません。
僕にはジョバンニのように、自分だけでなく他人の「さいわい」を求める必要があるのじゃ、とは胸をはって言えません。
日々お茶と向き合い、香りや味について構造的に整理を進め、感覚を研ぎ澄ませています。
構造や理学を突き詰めていくと、最終的にそれは必ず哲学に行き着くのではないかと感じています。
議論のレベルがポリシーレベルからパラダイム、フィロソフィーにまで至るように、全ての力学や構造体は突き詰めると哲学レベルになってしまうのではないかと。
それは、感性を突き詰めて言語するとまるで哲学的に聞こえるが、再現可能な極めて理屈的な内容であるように。
人の思考がこのように流れていくのであれば、行動にも反映されるとして、
現在の日本はフィロソフィー化しているように感じます。
それは高度経済成長期に始まり、ゆとり世代を経由し、さとり世代に行き着いたかのようです。
それぞれの世代毎に生きるあらゆる個がフィロソフィーに辿り着いた訳ではなく、大きな流れによってこのようになっていると。
日本がいち早く東アジアで唯一の先進国になったことと似るように。
中国はいまだにパラダイムの時期です。パラダイムシフトの期間を長く保持することができているため、国力や人から感じるパワーが全然違って見えるのです。
お茶の化学成分を舌で解析しながら、こんなことを考えている僕は哲学的でしょうか?
それとも化学的?感覚的?
今をどう生きればいいか、少しだけ迷います。
よくある話で、「もし明日死ぬとしたら、今何をするか?」
明日であれば、ほとんどの人が好きなことをしますね。
1年であれば?ある人は仕事を辞め、旅に出るでしょう。
ある人は日常に自身を埋没し、家族との時間を大切にするでしょう。
また、とある人は確定された死の恐怖に耐えられないかもしれません。
じゃあ10年なら?僕なら仕事を辞めて好きなことをしますね。
じゃあ40年なら?それでも僕なら仕事を辞めて好きなことをしています。
結果が変わらない人間は、決められた時間に対して行動を変えるのではなく、
同じ行動に対して結果として時間が決まってくるのではないでしょうか。
つまり、やりきったらいつ死んでもいい。
きっと僕は「銀河鉄道を一緒に降りよう」、そう言ってくれる人が現れるのを待っているのだと思います。
輝く星空の中にも、望むものはきっとありません。