こんにちは。世界樹の人です。
突然ですが、皆さんは性善説派でしょうか、性悪説派でしょうか。
私は、究極の性善説派でした。
性善説とは
「人間は本来善である」という考え方。儒教の孟子が提唱した思想。
すばらすぃ考え方で美しく見えるが、実は若干ネガティブイメージのある思想で、人間に対する諦めに近い感情も入ってる。
現代の実務や運用でいうと、こういう問題が起こりがち。
•「みんなちゃんとやるはず」と思ってルールを緩くすると、事故やトラブルが起きる
•「相手は悪意がない」と思って曖昧な仕様にすると、後で揉める
•「ちゃんと読んでくれるはず」と思って説明不足になると、誤解やクレームにつながる
性悪説とは
孟子の性善説に対抗して、荀子という人が性悪説を提唱。
「人の性は悪だ。善なる者は偽だ」とかなんとか言ったらしい。
でもこれは悪い意味ばかりではなくて、むしろすごくポジティブイメージの象徴でもあって、人間は本来欲望に従って動くが、法や教育によって善行をつくることで社会が成り立つということでもある。
悪であるからこそ、それをおさえるための制度をつくって平和を築きましょう的な。
性善説派のデメリット
まあこれは言わずもがなですね。信じて裏切られることです。
私は、家に盗みに入る人間なぞいないだろうという信念で、家の鍵も閉めないレベルの性善説派でした(ちょっと違うけど)。先日高校の友人たちとの同窓会で責められて閉めることにしました。
でも、鍵を開けて強盗に入られても、悪いのは強盗であって、俺はさすがに悪くないと思うんです。
これは法的にも倫理的にも、誰が見ても正しいです。
しかし、鍵を開けているということは「人間の“善意”に依存し、リスクを外部に置いている状態」です。
「悪くないけど、守れてはいない」のです。確かに本末転倒ですね。
性善説のいいところは、信じて信用されたときに、得られる幸福感も大きいということです。
私はその大きな幸福感を求めて、ひたすら性善説でいました。
そもそもですが、信用されたいなら、こちらから相手を信用する器量も必要です。
相手を疑ってかかっても楽しいことなんて起きないと思います。暴力を振るっている人も内心は楽しいわけではないと思います。究極に完成された真理の一つとしては、性善説こそが完璧であり、一点の曇りもない姿を目指して性善説であるべきなのです。
…これは完成されすぎた目標で、現実味がありません。
最近、尋常ならざるえぐい裏切りと、普通にそこそこやばい裏切りの2つをダブルパンチでもらいました。
もうお茶の店も他の事業も畳まないといけないレベルの話が急に降って湧きました。わりとガチで。
やっと茶業軌道に乗って色々展開の予定があったのに…。
いやー人生やってるなあ。。。このイージーモードでない感じ、、まさに人生だ。。
どちらも契約書を介さず物や資金、責任を口頭で決めていたので、当然こういうときは性善説派が損をするわけです。性善説信者は実際に裏切られとき、被る物は自ずと大きく設計されています。
なぜなら、裏切られることなんて計画に入れてないから。
性悪説派のメリット
先ほどの鍵の話は、契約書や信頼設計のメタファーです。
もし、鍵を閉めた扉を強盗が開けようとガチャガチャしたならば、ボコボコにシバいてやればいいです。
自分は何も盗られず、悪い奴も捕まえることができて、対策をうっておくことにデメリットはないですね。
でもなんとなく、関係性によっては契約書や対策がない状態での信頼関係の方が、美しく感じていたのです。
契約書を作る正攻法に背を向けて、煩わしさと後ろめたさを理由に、「紙なしでもこんなことできるんだぜすごいだろう」をやっていました。
はっきりいうと、これは私の独りよがりの大間違いでした。今から直します。
そもそも契約書の設計が、「裏切られるかもしれないから、それを防ぐためのもの」と私は思い込んでいました。
そのために契約書を交わす行為が、まるで無色透明な水に墨汁を一滴垂らすかのような、曇りの存在になると感じていたのです。これも大間違いでした。
色々と商売や人生の先輩方と話をして、考えをいい方向に変えることができました。
契約書というのは、信頼しているからこそ、交わすべきなのですね。
人間とは、信頼しているからこそ、疑うべきなのです。
なぜなら、
• 信頼だけでは足りず、万一に備え、悪意を持つ可能性を摘む
• 人はミスや悪意を持つ可能性がある前提で設計
• ルールや仕組みで信頼を“構築”する
となり、裏切られたときの対策になるし、そもそも裏切られるリスクを減らすことができるからです。
つまり、契約書という存在は、性善説では悪、性悪説では善だったのです。
第三の存在:宇宙人説
しかし、いくら考えても、どの考え方に帰属していても解決するイメージがない状況があります。
これは第三の存在、宇宙人説です。
一番厄介なのは、善と悪の区別もつかない宇宙人のような存在です。
こういう宇宙人だと気付いた段階で、契約書等の法的手続きを介入するか、関わらないのがベストなのかもしれません。
宇宙人の特徴はこんなところです。おそらく、職場に1人はいる!みたいなこともあるかと思います。
• 論理が通じない:因果や構造、時系列や次元を理解しようとしない
• 責任が通じない:自分の立場や影響、言われた相手の気持ちを考えない
• 信頼が通じない:約束や誠意を軽んじる
• 目的が通じない:何のために話してるかが共有されない
宇宙人は、会話対象ではなく、設計対象なのかもしれません。
善悪の判断を教えてあげるべき存在ですが、それすらも至難です。
そしてここに私は進言します。
性善説・性悪説の議論は、中国の戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前3世紀)に、思想家たちが群雄割拠する中で、人間の本性とは何か?社会秩序はどう築くべきか?という根本的な問いが盛んに論じられた時期ですが、
その議論には超巨大な誤りがあると。
第三の勢力、宇宙人説が論じられていないことです。
きっと今頃、もーしやじゅんしはあの世から私のブログを読んで、「その議論を忘れていた。。」と頭を抱えていることでしょう。これで私も諸子百家のひとりです。
しかし、裏切り行為を働く人間が皆、宇宙人かというとそうではないと場合もあるとは思います。
人間はどうあるべきか
なんとなく、歳をとって考えも変わってきました。
都会が好きな心は薄れ、田舎を求めるようになり、
性善説の限界に気付き、人を疑うことを知ろうと決め、
そういうお年頃なのかもしれません。(35歳)
今後はもっと丁寧に仕事をします。
杓子定規は嫌いでしたが、少しはこれも大事です。
法的効力のある契約書を交わしてから、大きなことに取り組もうと思います。
しばらくは、色々なことの後処理に追われ、寝る暇もないかもしれません。
ライドシェアドライバー、頑張らないと。