ニーチェ 善悪の悲願

こんにちは。世界樹の人です。
先日面白い話を聞きました。
有名な思想家、哲学家のフリードリヒ・ニーチェの一番有名な格言である、善悪の彼岸の、

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」

についてです。
著書『善悪の彼岸』(1886年)の格言で、怪物(悪)と戦う者は、自らも悪に堕ちないように注意せねばならず、真理や虚無を深く探求すれば、その闇に自分自身が飲み込まれる危険性を示唆しています。
これは、洗脳支配、マインドコントロールに通ずることでもあり、
身近に悪人がいると悪人を悪人と思えなくなったり、知らず知らずのうちに感化されて自分も悪人になってしまう、というような外傷的絆、認知的不協和にも通ずることだと感じています。
これを防ぐには悪人だと分かった時点で関わらない、またはいろんな人と交流を持って話をする、等々ができると思います。

最近私は深く考える思考力があるならどうせならそれを学問に活かしたく、マニアックな記事を書いたり、哲学書や小難しそうな本を読んだりすることにハマっていて、色んな考えを吸収して自分を作っていければと思っているのですが、まさにこういう「本質だけ深すぎてぶっちゃけ役に立たないもの」に飲み込まれそうになる時があります。
掘り下げれば面白いことはたくさんあるのですが、掘り下げたところで簡易的に説明できることもありふれているわけで、なにも小難しい言葉で説明できることが賢いわけでもなく、結局人間性に帰化するんやなあと思う今日この頃です。

それで、面白いことなのですが、この深淵に関する文章、実はこれニーチェが黒猫を見て考えついたという説です。

  中崎町の私の駐輪場。最近私か私の隣の単車に黒猫が占拠している

私には分かりませんが、黒猫を飼っている人あるあるだそうで、夜とか黒い布に黒猫が紛れると全く見つけられなくなるそうで、いないと思ってこたつに足を入れたら黒猫を蹴ちゃった、と言うことがよくあるそうです。
何かあると思って家の中で暗闇をじーっと眺めていると、実は飼い猫もその暗闇の中からこっちをじーっと見ていた。
それを見てこの詩を思いついたという話です。
実際、バイクのシートは黒いので、近付くまで黒猫がいることに気付かず、真横まできてびっくりすることがよくあります。

これが史実なら面白いのになあと思います。世は平和だ。

最近、自分の中でも感情や価値観が凝り固まっているのかなあと感じます。
もしそうなら溶かさないといけませんが、自分の本質となる部分もあると思うので、譲れないところは譲れないという頑固さも一定は必要です。
自分は、家族や友人に性犯罪被害者、DV被害者なんかが多いので、こういう倫理観のない人間には強烈な拒絶感があることを知りました。いやまあ分かってはいたのですが。
そのようなことをする人間には吐き気がしますし、社会のゴミなのでいますぐ死ねばいいと思っています。
これはもしかしたら、言い過ぎなのでしょうか。
しかし、これを言い過ぎだと言う人は、被害者や被害者家族の前でも同じことを言えるのか、と思ってしまいます。
これらは個人的に、殺人より弁明の余地がない罪だと感じてしまいます。
例えば、自分の大切な人を殺された時、その犯人を仇討ちするという理由の殺人は私は人間感情として理解できるし、情状酌量の余地があると思うのですが、DVはまだしも、性犯罪に関しては余地なし、即豚箱行き、死刑でいいと思っています。
世論や法律ではそうなっていないので、きっと私がいきすぎているのでしょうかね。まあ個人の考えなので、納得できるできないはあるかと思いますが、都会にいると色々ありますね。

そろそろ泡茶探味更新しようかなあ。。