こんにちは、世界樹の人です。
気付けば起業して3期目。店は来月で2周年。
今の中国、日本での生活もなんとなくルーチンかしてきて、色々と落ち着いてきました。
自分は前から言い続けていますが自己肯定感が低すぎて、アダルトチルドレンを治すために催眠療法を受けに行こうか考えているくらいなのですが、
「何者かになりたい焦燥」と、「何もしない自分を受け入れる諦念」
二つの生き方が交錯する時、少しだけ見方を整えるだけで、自己肯定感を上げれた気がします。
何かを追い求め続ける
現代社会を生きていると、目に見えない巨大な強迫観念に常に晒されています。
「現状維持は退化である」
「人生を最高に生きるために、常に新しい挑戦を続けよう」
「パラレルキャリア、複業、多軸のライフスタイルこそが現代の正解だ」
とかとか。
SNSを開けば、誰かが新しい資格を取得したと報告し、ビジネス書を読めば挑戦し続けろと急かされる。
このような情報過多の時代において、何もしないでいること、今の自分のままで立ち止まることに対して、異常なまでの恐怖や罪悪感を抱くように設計されてしまっている気がします。
それすらが悪で、なにもやっていない人を見つけては心の中で見下して安心するような、そこまで組み込まれた社会設計です。
しかしその挑戦や成長の裏側にあるものは、本当に純粋な好奇心や情熱だけなのか。
もしかするとそれは、「今のままの、何者でもない自分には価値がない」という、深い自己肯定感の低さや、焦燥感の裏返しなだけで、やりたくないことをやりたいことだと決めつけて突き進んだり、強迫観念様に背中を押されるどころか、猛烈なタックルをくらい続けて無理やり足を進めさせられているような気さえする。
逆に、自己肯定感さえ高ければ、挑戦せずとも、自分らしく生き、それを自分で認めてあげることができ、他者とも比較せず、自由気ままに生きて行くことが可能です。
自己肯定感というのは、究極の魔法であり、大体の人が持っており、なければいくら払っても手に入れるべき価値のあるものです。多分。持ってないから知らね。
この対照的な二つは、決してどちらが正しくて、どちらが間違っているかという単純な優劣の議論ではありません。そこにあるのは、人生の異なるステージにおける自分との和解のステップであり、人間が精神的な成熟を迎えるための、それぞれの格闘の軌跡かもしれません。
日々何かしなきゃと焦ったり、逆に自分はこれでいいのだろうかと足元が揺らいでいる心を、少しでも軽くするヒントになれば幸いです。
焦燥と多軸という名の免罪符
私は2024に組織を辞職し、店舗を2つ立ち上げ、中国で人を雇い、茶や中国物流、射撃場の運営に係る仕事をはじめました。
私は離婚を経験していますが、前の奥さんに独立したいという思いを一度話すと、「そういうことは20代で終わらせとけよ」と怒られたことがあります。あの言葉はただでさえ自己肯定感の低い自分の心にブッ刺さったし、怒りよりもそんなこと言うんだという失望に似た気持ちもあって、何歳になってもチャレンジすることは悪いことじゃない、と反論したことを覚えています。
店舗経営で実際にお客様と話をしていると、50代からお茶を勉強し始めたり、60代になって中国語をやり始めたり、そんな方はたくさんいます。
これ自体は、非常に素晴らしい好奇心の現れに見えます。新しいカルチャーに触れ、自分の世界を広げることは、人生のどの段階においても価値があることだと思います。
しかし、周囲から見ていて「また始まったか」「いろんなものに興味を持っては、すぐにやめていくな」と感じられる場合、その行動のダイナミズムは、純粋な学習欲とは異なる別のエンジンで動いている可能性があります。
心理学的に見れば、短期間で次々と新しいジャンルに飛び移る行動は、「アイデンティティの再構築(ミッドライフ・クライシス)」の一種であると考えられます。
このくらいの年齢は、実際のところ、20代のような何にでもなれる無限の可能性はすでに過去のものとなり、30代で築いてきたキャリアや人間関係の「現実的な限界」や「天井」が見えてくる時期でもあります。
この時期に、「私の人生、本当にこのままで終わっていいのだろうか」「自分には、他人に誇れる『これだ』という決定的な何かがまだないのではないか」という焦りが生じるのは、極めて自然なことです。
その焦りを埋めるための最も手軽な処方箋が、新しい事を始めることなのかもしれません。
こういう人をみると、すごいな!と思う感情もありつつ、自分に照らして考えてしまい、今更何者かになるために焦ったって…と思ったりもしつつ、単純に好きなことをやるだけでそんなことを考えてしまう自分に辟易してしまっていました。
何をするも、どのレベルでするも、楽しいければいいのに。
「何者でもない自分」という恐怖
こんなことで必死になってしまうのは、他者と自分を比較するからに違いありません。それは「自己肯定感の低さの裏返し」にあります。
特別なスキルのない自分、ただ毎日を消費しているだけの自分には価値がないと思い込んでいると、常に自分を装飾する何かを求め続けなければならなくなります。
これをもし否定的に見てみるとすれば、ラベルを自分に貼り付けることで、内側にある何者でもない自分という空虚な恐怖から目を背けることができるためでしょう。
この状態において、趣味や学習は、もしかしたら楽しむためのものではなく、自分を肯定するための防壁として機能します。だからこそ、その防壁が少しでも退屈に感じられたり、上達の壁にぶつかったりすると、すぐに防壁を放棄して、また別の新しい防壁(次の趣味)を探しに行かなければならなくなります。
これが「長続きしない」の本質的なメカニズムかもしれません。
多軸・転足で生きるという現代的生存戦略
実際、一つのことを極められない生き方を、全否定する必要は全くない。
むしろ現代においては、多軸で生きる(マルチ・ポテンシャライト)という生き方を自分で認めることができれば、それは最も幸せなことかもしれない。
過去の昭和・平成初期のような時代であれば、一つの会社で一つの職種を40年全うする一軸の生き方(職人型みたいな)が美徳とされ、最も安全でした。
しかし、これだけ変化の激しい激動の時代においては、一つの軸に依存することはリスクでもあります。
浅くてもいいから、複数の点(軸)を持っていることのメリットの例は以下の通りです。
- ユニークな掛け合わせが生まれる:中国語が少し話せて、茶の知識が少しあって、他にもいくつかのニッチな知識がある。これらが組み合わさることで、「中国語ができる人」や「お茶の専門家」単体では勝てない、その人だけの独特なパーソナリティや魅力(希少性)が生まれます。
- 予期せぬコミュニティとの接続:それぞれの趣味の入り口で、全く異なるクラスタの人々と出会うことができます。これは人生のセーフティネットを広げることにつながります。
- 変化への適応力:一つのことに執着しない柔軟性は、環境が変わったときにパッと次の行動に移れる「軽やかさ」を生みます。
この多軸の生き方が美しく機能するためには、絶対的な前提条件として、本人が極められない自分、浅い自分を心の底から肯定できていることが絶対的に必要です。つまりは自己肯定感です。
もし、心の中では「一つのことを極められない私は中途半端でダメだ」と自分を責めながら、ポーズとして多軸を演じているのだとしたら、それはただの「逃避」であり、結局自身を苦しめる結果になっていくでしょう。
最近やっと到達した諦念と、家でゴロゴロする贅沢
私は周りからアクティブで動き回る活動的な人間だと見られがちです。
前職でも行動の早い人間として評価されていたと思います。
でもそれは偽りで、私は根暗で臆病でエネルギーの少ない人間です。本当はゴロゴロするのが好きなのかもしれないと、ずっと思っていました。
30代半ばというのは、20代から続いていた全方位への拡大欲求や他者との比較に、心底疲れ果てる時期かもしれません。仕事での責任が増し、周囲の結婚や昇進、ライフスタイルの変化を目の当たりにする中で、「自分ももっと頑張らなければ」「もっと立派な人間にならなければ」と、アクセルを踏み続けてきた人も多いはずです。
そのマインドフルな疾走の果てに、いや、もういいわ。俺の本質はそこじゃねーわ、とブレーキをかけることできるのであれば、これは人生における非常に大きなパラダイムシフトなのかもしれません。
実際、窓際族と呼ばれるような人たちも、家で家族と一緒に幸せに過ごしているかもしれません。
勿論それ自体が同僚に迷惑をかけることの免罪符にはなりませんが。
家でゴロゴロすることや一人の時間を愛することを、怠惰やサボりとして責めるのではなく、それが自分の心地よさなのだと自己受容すること。これこそが、大人の精神的成熟の証明かもしれません。誰になんと思われようが、自分が心地よいならいいのです。
先日私は36歳という年齢でこの境地に達したような気がします。非常に遅いです。
根暗なまま落ち着く、離れていかないものだけ大事にする、いらないものは捨てる
私たちは子供の頃から、明るく、元気で、社交的で、常に前向きな人間が素晴らしいと教育されがちです。
社会に出ても、コミュ力が高い人や、アクティブにネットワークを広げる人が称賛されるし上に行きます。
そのため、元々の性質が内向的であったり、静かに過ごすことを好む人は、無理をしてでも「外向的な自分」を演じようとしなければならない。
自分の本来のキャラクター(根暗、内向的、静寂を好む)を歪めて生きることは、魂のエネルギーを激しく摩耗させます。根暗なまま落ち着きたい。
自分の器のサイズと性質の輪郭を正しく把握し、それをそのまま受け入れなければ、疲れ続けるだけだ。
別に世界を変えるイノベーターにはなる必要もないし、よく考えればそんな苦労したくもありません。、
週末パーティーを開くような人間でもないし、そんなことしたくもありません。
一人で焼肉食べ放題にいってスーパー銭湯にいって、時々それに恋人や親友がついてきてくれれば、その方がはるかに楽ちんで幸せです。
そして静かに家でお茶を飲みながらゴロゴロしている時間が、何よりも自分を充電してくれる。
この確信が得られたとしても、まだ私は他人との比較レースから完全にリタイアすることができたとは思えません。レースから降りた人間は、誰に勝つ必要も、誰かを見下す必要も、誰かを羨む必要もなくなるので無敵です。内側が静かで満たされている状態、これこそが本当の意味での高い自己肯定感を超えた自己充足かもしれない。
じゃあなぜこのような生き方に違和感と理解を同時に抱くのか
その生き方はどうなんだという焦燥感と、なんでも楽しめればいいという理解があるのは、他の方も今まさに比較レースに囚われているように見えるからかもしれません。実際はそんなことないのに。
いろいろつまみ食いする生き方が、将来の素晴らしい財産(多軸の人生)になるのか、それとも何も残らなかったという老後の後悔につながるのか。
その運命を分ける「境界線」はどこにあるのか。死ぬ時に後悔しないならなんでもいいんだ。
自己目的化しているか、ポーズ(手段)か
その趣味や挑戦そのものが、純粋に楽しい時間になっているかどうかが最も重要です。
- 健全な寄り道(自己目的化):プロセスそのものが楽しい。心が癒される。上達しなくても、その時間を過ごすこと自体が目的(ゴール)になっている状態。
- 危うい逃避(ポーズ・手段):意識の高い自分を誰かに見せたい。高尚な趣味を持っている。センスの良い自分をSNSでアピールしたい。あるいは、現在の仕事や家庭の不満、将来への不安から目を背けるための麻薬として趣味を使っている状態。
もし後者がある場合、その趣味は心を根本からは救わないかもしれません。
道具としての趣味が変わるだけで、内側の不安はそのまま放置されているからです。
新しいことを始めた時、それをしている時の自分の心と表情が本当に楽しそうか、それともどこか必死で、義務感に満ちているか、客観的に観察してみル必要がありかもしれません。
やめる時の言い訳に自分を騙していないか
物事をやめる時、人は高確率で言い訳を探します。
先生と合わなかった、思っていたのと違った、時間がなくなった、とか。
もし、やめる理由を常に環境や他人のせいにしている場合、それは経験値として蓄積されず、ただの挫折の記憶とになってしまうかもしれません。
逆に、「やってみたけど、私はそこまでこれを極めたいわけじゃないと分かった!よし、次に行こう!」と、「自分の意思で主体的にやめる」ことができているならば、それは立派な収穫です。
「何がやりたいか」を知ることと同じくらい、「自分は何に熱狂できない人間なのか」を知ることは、人生において価値があります。
主体的な撤退であれば、将来あの時、あれをやったのは無駄ではなかったと肯定的に振り返ることができるでしょう。
この違いを理解せず、できないこともやめることも全て悪いことと捉えていた自分の浅はかさに辟易します。
人生の正解は軸の数ではなく、自分との和解度で決まる
どんな生き方も、アプローチは180度異っても、目指しているゴールは同じかもしれません。
それは、このまま生きていって大丈夫だという安心感(自己受容)の獲得があればいい、最初からそれができれば何も気にすることができる、それが一番です。
自分の外側にたくさんの「点」を打つことで、その網の目の中で自分という存在を支えようとすることも、
自分の内側にある不要な「欲」を削ぎ落とし、一本の強固な土台の上に座ることも、安心感があればいい。
人生の幸福度を決めるのは、持っているスキルの多さでも、趣味の豊富さでも、あるいは逆にどれだけストイックに家で落ち着けているかという形式の優劣でもありません。
今の自分の生き方に、どれだけ自分で納得できているかという、自分との和解度かもしれませんね。
そう言う意味では、諦念のフェーズも悪くない。
誰がなんといおうと、自分らしく自分のやり方生きるしか、結局のところは意味がありません。
中国で仕事しているからといって、中国人に気を使うなと怒られても、私は日本人であるアイデンティティを持った個人として、接していくしかない
そして休みの日は布団の中でゴロゴロする。
結局、人生はいつだって今からかもしれません。
